2021年7月16日にリリースされたClairoのセカンドアルバム『Sling』。BleachersのJack Antonoffがプロデューサーを務めた本作品では、人生を取り戻すために健全な空間を取り戻すことがテーマだ。
Clairoは、2017年に巻き起こった”Pretty Girl”の巨大なバズを経て、2019年リリースのファーストアルバム『Immunity』はZ世代のアイコンとしてのポジションを確固たるものとした。しかし、その後休む間もなく世界中をツアーすることや、音楽業界内での人間関係、そしてファンやレコード会社が求める「Clairo像」に対するプレッシャーに苛まれながら多忙を極める生活を送っていた。
体力・精神的に大きな負荷がかかり、徐々にミュージシャンとしての人生=Claire Cottrill個人そのものになってしまう感覚があったのだと思う。個人の人生が自分の手元を離れて、コントロールが効かなくなるような感覚とも言えるかもしれない。そんなプレッシャーなど僕には到底イメージできない。しかし、作品を聴いていると『Sling』を通して、Clairoは、自分の元から離れてどこかに飛んでいってしまいそうなClaire Cottrill個人としての人生を取り戻そうとしている。
メンタルヘルスとパーソナルライフ
『Sling』には二つのテーマがある。ミュージシャンとしての音楽業界を生き抜く上でメンタルヘルスの問題と、ミュージシャン以外の「個人」としてのClaire Cottrillの人生が失われていく感覚だ。
8曲名の“Just For Today”では”I blocked out the month of February for support, At least I have this year. I won’t be worrying anyone on tour.”と歌うように、彼女は実際に2020年の2月をまるまる空けて、メンタルヘルスのサポートを受けたことを赤裸々に語っている。NPRのインタビューでは、東京五輪の陸上競技アメリカ代表のシモーネ・バイルズがメンタルヘルスを優先し試合出場を見送ったことを引き合いに、ツアーを続けることがメンタルヘルスに与える影響についても言及している。
And I had a small inkling in the beginning of that tour that I probably couldn’t do it, but I still did it anyway because there are people counting on you, because there are people coming to the shows. There’s so many people to let down. But sometimes I think it’s easier in the moment to rationalize how your mental health isn’t as important as not letting everybody down. But then once you get there, you know that you should’ve just listened to yourself.
Quoted from NPR
ツアーをやり切る予感があったとしても、キャンセルすることで多くの観客に残念な思いをさせるぐらいなら自分のメンタルヘルスは後回しにしようと思い込ませることは簡単。でも実際にツアーをまわっていると、自分の声に耳を傾けるべきだったと思う、と語る。それだけ、ツアーをまわりつづけることが彼女のメンタルヘルスに大きな悪影響を与えていた。
10代前半、友人の助けがあり自殺を思いとどまったことを歌う『Immunity』の”Alewife”にもつながるが、音楽業界での成功がさらに彼女に対するプレッシャーを強めたのだと思う。
音楽業界に対する彼女の思いはオープンニングトラックである”Bambi”の冒頭に表現されている。”Universe designed against my own brief”とは音楽業界を指している。まさに、自分の信念とは違った形に作られた世界に足を踏み入れようとしていたことが語られる。
“I’m stepping inside a universe. Designed against my own beliefs”
また、彼女の信念と思われる部分も後半に登場する。「自分が求めていることはコミュニケーションや時間だとしたら?」と問いかけるが、押し殺して世界中をまわるツアーへと出かけていく。『Immunity』のリリース前後まで、文字通り音楽業界に入ったばかりの”Bambi”だった彼女が成功するために犠牲にしてきたことが以下の引用部分から感じられる。
But what if all I want is conversation and time?I move so I don’t have to think twice. I drift and float through counties with my one-sided climb
リードトラック “Amoeba”から感じられる「罪悪感」
また、ツアーがClairoから奪っていったことは”Amoeba”で表現されている。忙しさにかまけるあまり、家族に電話をしようとすらしていなかった。家族や友人はClairoが多忙なことも知っているから、電話を控える。そうやってコミュニケーションが薄れてしまったいる中でも、必然性のない「雰囲気的にその場にいなければならないパーティーに行く」罪悪感を表現しているのだろう。
“Aren’t you glad that you reside in a Hell and in disguise? Nobody yet everything, a pool to shed your memory. Could you say you even tried? You haven’t called your family twice. I can hope tonight goes differently. But I show up to the party just to leave.”
普通な状態であることに対する喜びや、大切な人と過ごせたがそうしなかった時間を悔いることも同時に語られている。
“Pulling back, I tried to find The point of wasting precious time. I sip and toast to normalcy”
サウンド面でもClairo自身が多忙であることと、大切なことを放置してしまっていた罪悪感が、分裂したり形を変えて”アメーバ”のように支配する様子を表現している。
特徴的なのはコーラスの声の重なりが空間を埋めていることだ。通常であればストリングスを使ったり、パッドなどで空間の広がりを作るところをClairo自身のコーラスを多重に折り重ねることでソフトな音の質感を演出している。また、2コーラス目の”Echo chamber inside a neighborhood”のすぐ後にガラスの瓶を割る音のサンプリングが差し込まれており、Clairoの行き場のない精神的な葛藤が感じられる。また、クライマックスに差し掛かると、クラヴィネットとカリンバの重なりが彼女の多重なコーラスに加わり、Clairoの繊細な歌声をかき消していく。頭ではわかっているけれど、自分自身が音楽業界のスピード感とのしかかるプレッシャーを表現しているように思える。
サウンドの解説は以下のインタビュー動画に詳しい。英語しかないが、ぜひ観てみてほしい。
そうした家族や友人、特にClairoの母親は『Sling』には頻繁に登場する。彼女がメンタルヘルスを改善しようとしていた2020年2月ごろといえば、ちょうどCOVID-19の感染が拡大し始めた頃。Clairoは最終的にツアーをキャンセルせざるを得なくなり、2020年中のツアーすらスケジュールできない状況だった。その状況下でClairoは実家に帰り、家族と過ごすことになる。大人になってから母親とたくさんの時間を過ごすことになるとは思ってなかったとインタビューで語っていたが、この時間こそがClairoが『Sling』を作る大きなインスピレーションとなった。母親にも親になる前の人生があったのだろうと想像すると、Clairo自身も人生の”母親になる前の段階”を生きていることに気がついたとインタビューで語っている。
母親や親になることを考えるきっかけとなったのは間違いなく、彼女が飼い始めた犬だろう。Joanieと名付けられた彼女の愛犬はアルバムアートワークでも登場し、インスト曲としてもアルバムに収録されている。Joni Mitchellから名前を取ったという。ちなみにクレジットにも”Chimes – Joanie Cottrill”と記載がある。
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子供が産まれた時、そしてJoanieを育てる環境を作るとするとベストな場所はどこだろうか?ということを考えている曲が”Zinnias”だ。
“I could wake up with a baby in a sling.Just a couple doors down from Abigail”
AbigailはClairoの姉であり、すぐ近くに住んでいていることが彼女にとって子育てする上で重要なポイントになるだろうと語る。
Clairoは家庭や親という至極パーソナルな主題をアルバムに持ち込んだ。音楽業界が求めるスピード感で、求められるZ世代のポップアイコンを演じることはしないという宣言に思えた。以下はGuardianのインタビューでClairoが語った一節だ。非常に痛烈であるが、業界の雰囲気を打破していくために、パーソナルなテーマを軸に『Sling』を作り上げたのだろう。
“[The attitude is] ‘There’s a lot more that we can squeeze out of her before she’s done.’ Because I think that what this industry does a lot is drain young women of everything until they’re not youthful any more.”
Quoted from The Guardian
アーティストを一つのコンテンツとして消費してはいけない
国やレコード会社によって差があることは承知しているが、音楽業界は若い女性アーティストをその若さや美貌を武器に売れるところまで売り切った後、次世代に乗り換えていくスタンスは確実に存在している。しかし消費されたアーティストの人生の責任を取るのはアーティスト本人だ。業界の通例をガラッと変えてしまうことはすぐにはできないだろうが、リスナーとしてできることはある。アーティストの人間的な側面を尊重し、私たちが求める「アーティスト像」を過剰に求めないことだ。
音楽を消費する聴き方はアーティストの寿命を縮めることになるし、音楽業界はさらに早いサイクルで新しいスターを作り出そうとするだろう。そういった業界のビジネスのやり方に”No”を突きつけていく必要がある。そして、Clairoの『Sling』には、アーティストの個人的な側面が強調されているし、猛スピードで消費されていく音楽コンテンツのビジネスとClairoの間に明確な境界線を引く意味合いがあったのだと思う。Clairoは、5〜6年ぐらい休んでから音楽を再び始めたり、教師になったりすることも考えていると語る。そう、Clairoは『Sling』を通じて自分の人生を取り戻そうとしている。